(参考)土気城と土気酒井氏

 

 土気酒井氏は、小田原北条氏、上杉謙信、安房里見氏ら有力戦国大名と、ときに結び、ときに敵対して、苛烈な時代を生き延びました。その舞台が土気城です。ハイライトは、北条氏政の大軍の来襲をうけた永禄8年(1565年)2月の戦いでしょう。このとき攻め寄せた北条方の主力をなしたのは、生実(千葉市)・臼井(佐倉市)を拠点とする原氏配下の諸将たちであり、土気酒井氏にとって昨日までの友軍。同族の東金酒井氏も北条方について、金谷口より攻め寄せてきました。安房里見氏からの援軍は一兵も来ず、まさに四面皆敵。しかし土気城に拠った酒井胤治は、北条方を撃退しました。土気城の真価を証明した戦いともいえましょう。

この篭城戦の最中に胤治が上杉謙信(長尾景虎)に関東出馬を要請した書状[河田文書]が今日に伝えられていますが、この書状は、戦国領主たちの外交活動の有り様だけでなく、当時の土気城とその攻防戦の様子をうかがうことができるという点でも貴重な資料です。

 

 旧冬以北村内記助、当国之様躰申上候処、御懇切ニ御披露畏入存候、仍去十二(北条)氏政当城ヘ披取懸候、於宿城臼井衆・原弥太郎・渡辺孫八郎・大網半 九郎・大厩藤太郎・鈴木始五十余人討捕候、同十三、金谷口名左衛門尉為手向迎候間、愚息左衛門次郎人衆召連差向遂一戦、河嶋新左衛門尉・市藤弥八郎・ 早野・宮田其外宗者共百余人討捕候、同日於善生寺口も切而出、十余人打候、於度々得勝利候、可御心易候、就中房州御手前折角故、当城ヘ一騎之合力も無 之候、拙者致興亡候者、(里見)義堯・義広(弘か)同日ニ不可有曲候、爰元様躰可為長陣候間、急速ニ後進発披成候様、御諷諌所仰候、我等事者、年来 (北条)氏康・氏政前無ニニ走廻、去庚申年(永禄7年)自御越山之砌、於両総、拙者許令忠信候処、去年国府台合戦之刻、不忠之仁披引出、忠信之某無曲 扱共、更不及堪忍候間、眼前興亡令逼塞、房州へ一味太美(太田資正)岩付(武蔵埼玉郡)へ送届申候、縦関東中之諸悉士氏康・氏政へ致悃望候共、於拙者 義堯父子相守可申候、弓箭八幡日本国之大小神祇・法花経三十番神も照覧候へ、氏康父子所へ致無事間敷候、我等家中十ヶ年以来大乱故悉相労候、同者早々金へ披寄 御馬候様頼入候、以貴面万事申承度念願迄候、恐々謹言、


  (永禄八年)二月十八日           酒井中務丞胤治(花押)
河田(長親)殿 
  参御宿所

(『改訂房総叢書』所収)

 

      大厩藤太郎・・・市原市菊間・大厩付近の領主か。

      左衛門次郎・・・酒井胤治の嫡男、酒井康治。

      太田資正1522-91)・・・太田道灌の孫。岩付[岩槻]城主。当初北条家の配下にあったが、1560年上杉謙信の小田原侵攻を機に、離反。反北条側にたつ。この書簡の前年、第二次国府台合戦後、北条側に転じた嫡男氏資により岩付城を追われた。

      三十番神・・・毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々。中世以降は特に日蓮宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。土気城、二の丸内には、同地に日本航空研修センターの施設が建設されるまで、三十番神の祠があった。

     河田長親1545-81)・・・上杉謙信の近臣。近江出身。謙信が上洛した際、見出され重用された。永禄年間には、上野国沼田城城代をつとめ、謙信の関東での窓口となったようである。永禄末年には、越中在番となり、のちに対信長防衛にあたる。

 

 城郭の遺構そのもののほかに、特筆すべきはおそらく中世・戦国時代の頃の様子を残す町並みです。今なお「××守」など守名乗りを伝えるお宅が整然と立ち並ぶさまは、驚嘆します。また善勝寺・本寿寺といった周辺の寺院も、たいへん古い由緒をもつお寺です。土気酒井氏の勃興とともに広まった七里法華の教えは現在も地元の方々の生活のなかに生きつづけています。戦国時代の土気の人々の様子をリアルに伝えるものとして、しばしば引用される一節を引用しましょう。

 

 永禄十二年の頃より、姉ヶ崎、麿呂谷、長南、萬騎、小田喜、勝浦、右の城々小田原氏政の御手に入属す。其の時、土気・東金両城は、朝夕合戦の談合止む事なし。されば、名字の百姓は御扶持方下され、田畑を耕す時は畔疇に鑓、長刀、或は藤柄の小脇差大小を伏せ置き、城中にて鐘を撞き、太鼓・貝を吹く時は、耕地より直に上り、先ず帳面に付け、一番鐘を撞く時は兵糧を運び、二番に太鼓を打つ時は鎧甲を着し、其の外よろづ支度を整へ、三番に貝を吹く時は、御家中其の外名字の百姓まで残らず城内へ相詰む可き由、御触出しなり。 

                      (『土気古城再興伝来記』『改訂房総叢書』所収)

 

いざ土気城へ


 (参考)小高春雄1994 『千葉県中近世城跡研究調査報告書 14集 −土気城跡・池和田城跡測量調査報告− 平成5年度』千葉県教育委員会